ムクドリ

 都会に住んでいて一番よく見かける鳥はハトで、次がカラス、それからスズメだ。鳥の種類のことをあまり知らない人でも、この3種だけはだいたい区別がつく。四番目はとなると、公園の池や川で泳いでいるカモだろうか。

 ところが、先日仕事の現場で見つけた鳥の死骸は、これらとは全然違う鳥だった。別に珍鳥というほどでもなく、名前を聞けば日常の生活圏にいる鳥の一種で、見かける度合いもカモに次いで五番目ぐらいかもしれない。

 それなのに印象が薄く、フォルムとしても形態がイメージしにくい鳥だ。スズメよりもずっと大きくて、ハトよりはやや小型。色は褐色というのだろうか、地味な目立たない色だ。意外なことに嘴がオレンジ色をしていた。

 初めてまじまじと見たにもかかわらず、これがムクドリだということがすぐにわかった。あまり人には近づかず、いつも集団で飛び回っている印象だから、これがマンションの窓の下で、孤独に一羽だけで死んでいるのも意外だった。

 上の階の透明な窓ガラスにでも衝突して、気を失ったまま夜中に凍死でもしたのだろうか。見たところどこにも傷はなく、別にやせ細ってもいなかった。早朝だったから、まだカラスにも見つかっていなかったらしい。

 せっかくだから同僚の職人たちにも見せてやろうと思って持って行ったら、みんな気味悪がって、中には見た瞬間にのけぞった者もいた。植木屋というのはあまり生き物が好きではないらしい。仕方がないからマンションの庭の隅の方にそっと埋めてきた。

古巣からの電話

 花見に浮かれていると、突然忘れていた古巣からの電話が5年ぶりに入る。役所相手に仕事をしている中小企業のコンサル会社だ。久々にブラック企業の匂いを嗅いだ気がした。

 何の用かと思えば、前年度の仕事で終わっていないのがあるから手伝ってほしいとのこと。たまたま現場仕事が忙しくない時期だから引き受けたが、あっという間に一週間が過ぎてしまった。

 この5年間、こちらは肉体労働で大変だったが、職場に残った者たちもかなり苦労したようだ。出るも地獄、残るも地獄。中小企業にワークライフバランスなどあったものじゃない。本当に、なんでこんなに生きづらい世の中になったのだろうかと思う。

 何とか一週間で片づけたが、できれば今後も手伝ってほしいと頼まれる。ここ数年で会社に書き手がほとんどいなくなってしまったらしい。

 さて判断が難しい話となった。大学生の息子を2人抱える身としては、収入が増えることは有難いが、昼も夜も無理して働いて、果たして体がもつかどうか。断るのは簡単だが、何とか手段がないだろうかと考える。

 親方に相談して、現場に参加する日数を減らしてほしいと頼むことは可能だろうか。そんなことなら、新人も2人入ったことだし、もう来なくてもいいよと言われそうな気もする。そうなると生活自体が成り立たなくなるだろう。さてどうするか。

二代は続かないか

 社長の息子は悪い人間ではない。例えば人に意地悪をしたり、強圧的であったりすることはない。ただ怠け者で、気分が散漫で、仕事もいい加減に済まそうとする。これまでは周りの職人たちがその分を補ってきたが、だんだんそういうわけにもいかなくなってきた。

 社長も70代の半ばとなり、本心では今年50歳となった息子に後を譲りたい。しかしそうしたとたんに会社が潰れるだろうことを恐れている。実際そうなるだろうと思う。

 息子もまんざら馬鹿ではないから、そのことに気付いている。そして社長が元気なうちは、その懐にしがみついておこうという腹のようだ。その間、仕事は職人たちがしてくれるから、自分はなるべくきつい仕事は避けて、責任も負わない立場で、できればあと10年はこうしていたい。そしたら年金生活が見えてくると。

 社長は確かに頑健だから、あと5年くらいは今の仕事に十分耐えれそうだ。だが80を超えればさすがに難しくなるのではないだろうか。万が一中途で社長が倒れたら、無気力なボンボンを養ってやるほど職人の世界は甘くはない。

 人生の再起をかけた50代の新人たちは、あっという間に二代目の本性を見抜いたようで、「あれでは駄目だ」と語らっているようだ。陰ではジュニアと呼んでいるらしい。新人のうちの1人はなかなかの野心家に見える。

 真面目な彼らが仕事を覚え、仕事に自信をもってきたら、社長の引退を待たずにボンボンの居場所はなくなるのではないだろうか。やはり仕事を真剣に覚えようという意気込みが違う。やる気がある人間が仕事を継いでいくようになるのは当然だと思う。

暑い花見

 道場の花見があって参加した。知らない道場の人や初めて見たような人がたくさんいる。知っている顔は2人か3人しかいない。それも当然だった。自分の方がよそ様の道場の花見に参加したのだから。

 たまたま遊びに行った先の道場で、これから花見に行きますから一緒にどうぞと言われて、そのまま錦糸町の公園まで行くことになった。いつもは後楽園や上野が定番だったから、錦糸町は初めてだった。

 桜はそんなに多くはないが、噴水のある広い公園があり、すでに大勢の人でごった返していた。そこの一角に場所がとってあり、昼食を兼ねて3時間ほど花見をやった。その間、肝心な桜の方は一度も見上げていない。

 よその道場だが、同じ武道の系列なので、話す話題も似たようなものだ。あんまり気づかいすることもなく時間を過ごしているうちに、いつの間にか4時を過ぎていた。

 ビールに焼酎に泡盛に日本酒と勧められて、結構酔っぱらってしまった。どこのお酒か知らないが、いや見たはずなのに覚えていないのだが、アルコール度数が25度くらいあって、ほとんど焼酎並みだった。

 それ以上に高かったのはこの日の気温だ。まだ3月の31日だというのにやたらと暑いなと思っていたら、28度以上もあったらしい。酔いと気温のせいでふらふらになって帰りついた。それでもいい休日だった。

行きつくところまで

 現実がままならないと、ついスピリチュアルに頼りたくなる時がある。そうなった時点ですでに奈落への道を歩み始めている。スピリチュアルに洗脳されてやがて抜けられなくなる。

 参考までに意見を求めてみるくらいならばいいが、運命を好転させるためにといってお金を貢がされるようになったらもう終わりだ。自分の人生ではない人生を歩まされることになる。

 スピリチュアルというのは、自分の向かっている方向を確かめるために、ときどき空の星の位置を知るようなものではないだろうか。だが今の時代は確かに、地上に人工の光が多すぎて、星の位置さえ分からない。まがい物の光の中をさ迷っているうちに人生が終わってしまいそうだ。

 「男はまず一人前に稼がなきゃだめだ。スピリチャルとかに詳しくても、まともに生活できないようじゃ話にならない」と言って、叱ってくれるような人も少なくなった。「男は」とか「一人前」とかいう言葉自体が、そもそも言えないような時代となっている。

 スピリチャルを正しく理解すれば、経済的に自立した生活を築いていくことと矛盾しないように思うのだが、やはり世の中が複雑になりすぎたのかな。仏壇に神棚があって、贅沢はできなくても衣食住に不自由はしない生活。

 今さらそこに戻れない以上、いったんは行きつくところまで行くしかないのかもしれない。いや、もうすでに一部は行きついているようだ。こんな物質的に恵まれた時代に、貧困がはびこって衣食住にこと欠き、年間数万人の自殺と孤独死があふれる現状。これからさらに大量失業の時代が来るのか。

読書の仕方

 日中の仕事を終えて、それから本を読むというのも結構大変だ。つい横になって動画ばかり眺めてしまうが、そればかりだと目も頭も悪くなりそうだ。最近は動画のできが良すぎて、自分でものを考えるのが面倒になってしまう。

 情報はたくさん入ってくるが、自分に関係のない知識ばかり増えていっても頭は悪くなるようだ。内田百閒という夏目漱石の弟子が、「世の中には何でもよく知っている馬鹿がいる」とどこかで書いていたのを思い出した。

 読書は能動的にかかわるという点でまだましなのだろう。字面を追っているだけでも何らかの想像力が頭の中で働いている。でも読書というものにも訓練がいるのを感じる。

 あまり興味のない本や難しい本を無理に読まないことが第一だろう。ただ読んだというだけで何も残らない。映像の代わりに文字が目の前を流れていっただけだ。若いころはそれで散々失敗して、貴重な時間をずいぶん無駄にした。

 自分なりの読み方を身につけるというのも年季がいるが、世の中には自分にとって無駄な本というものもある。最近は、いい本だと思っても頭から全部読むこともなくなった。

 適当に本を開いて、目についたところから読む。前後バラバラに読んでいて、いつの間にか一冊読み上げていることもあれば、途中で飽きたらそこでやめる。

 一つは老眼が進んで目が疲れやすくなったせいだが、本なんてくそ真面目に読む必要はないと開き直ったせいもある。「本は読んでも読まれるな」ということを我が流なりに体得したようだ。

外国語

 大学時代、第二外国語で中国語にしようか、ドイツ語にしようかと迷ったあげくに中国語を選んだ。日本の地理的条件を考えて、英語と中国語を使えるようになっていれば、何かと役立つことが多いだろうと考えたからだ。

 もちろん今となってはどちらも大して物にはなっておらず、仕事も外国語をまったくと言ってもいいほど必要としない環境で何十年かやってきた。

 語学が多少役に立ったとすれば、和製英語を理解するときの言語の意味が大体わかることと、道場にやってくる外国人と簡単な挨拶を交わす時くらいだ。

 最近は中国人も多いから、もっとしっかり勉強しておけばよかったとも思うが、英語や中国語で流ちょうに会話をするようなことは、いくら机上の勉強をしたところで所詮は無理だろうなとも感じる。

 外国語を実用的なレベルにまで高めようとすれば、5年や10年は現地に行って生活してみなければ無理だろう。そうなると、学校教育で膨大な時間をかけて外国語の勉強をする意味は何なのかということになる。

 だが、外国語に限らず、学校教育で学ぶこと自体が、そもそも実用的な意味では役に立たないことがほとんどだ。言い換えれば、大抵の人にとってはそれで直接お金が稼げるわけではなく、いわば趣味、教養的な学問がほとんどだ。

 だからと言って、技術的なことばかり身につけても、語学ならば英会話学校や語学留学でしゃべることばかりが堪能になったとしても、そんな人は幾らでも代わりがいるよということになってしまう。

 一見役に立たないように見えても、やはり基礎教育という部分がないと、現代では生きてはいけないことになっているらしい。