知命ということ

 ふり返れば運命の転機というのはいくつもあった。これでよかったと思う転機もあれば、明らかに失敗だったと悔やんでも悔やみきれないものもある。

 とくに20代の頃のしくじりは、未だに傷深く尾を引いて、取り返しのつかないまま現在に至っている。20代というのは一端の大人になったつもりでも、しょせん経験値が不足しすぎていて考えも浅い。

 これも思い返せば、その時々で正しいことをそれとなく助言してくれる年配者はいたのだ。それは父親でもあれば、会社の上司でもあれば、たまたま乗り合わせたタクシーの運転手であるときもあった。

 だが若さというのは理想に走りがちで生意気で、年配者の意見というのがあまりにも世俗的で有りふれたことのようにも思われて、浅はかな自分の考えのままに突っ走ってしまう。

 それがやはり過ちだったと心身ともに顕在化してくるのは、中年期を過ぎ、そろそろ初老と言ってもいいような年代になってからのことだ。

 中国の孔子は、50歳前後のことを「知命」と言ったが、運命を知るというのはこのことかと身にしみて感じさせられる。