関東と九州

 九州の学校を出て、さてどこで就職しようかと考えるとき、地元を選ぶ人も少なくないが、東京や大阪に出るケースも多い。自分の同期の例でみると、5対1くらいで東京に来る割合が多いと感じた。

 自分もまた東京に出てきた一人だが、関西というのはどうも言葉や文化が自分ではとても馴染めないような気がして、行くなら東京しかないと思い込んでいた。

 東京に来て、巨大なビル群や地下鉄の複雑さなどには最初圧倒されたが、気候も北部九州と大して変わらないし、さっそくもぐり込んだ下町での生活もすぐに馴染んでしまった。

 九州は関西よりも西にあるのだが、文化的には関東の方が近いように感じるのは、京都を中心としてみれば歴史的にはどちらも田舎だったという過去があるからだろうか。

 今の東京は九州など足元にも及ばないくらいの経済の集積地で大都会だけれども、江戸時代以前の鎌倉や室町のころは、博多の周辺を除けば九州も関東も似たようなものだ。文化の中心は京都や関西だ。

 鎌倉に幕府ができて、武士の時代が起こり、関東がはじめて政治の中心になる。このとき頼朝は、功績のあった御家人を守護や地頭にして、関西を飛びこして九州一円にばらまいている。関西はお公家さんたちの力が強かったからどうにもならなかったのかもしれない。

 そうした御家人の末裔が薩摩の島津氏や豊後の大友氏で、その時の鎌倉御家人文化の影響がずっと残って、鎌倉、室町という中世を経て、江戸時代になっても残り続けて、関東と共通する地盤となって現代につながっているような気もする。

アメリカ人

 本部の道場にはいろんな国から人が来ていて、アメリカ人も何人かいる。一番よく見かける三十代の男は、アメリカ人の平均よりもやや大きめだと思うが、身長は183~185センチくらいで、体重は110~120キロくらいはある。ほとんどプロレスラー並みの体格だ。

 ここまで大きくなくても、アメリカ人やヨーロッパ人で身長180センチ以上、体重100キロ前後というレベルはごろごろいるから、こういう人たちと力でまともにやり合ってはいけないということはよくわかる。

 しかし、彼らは彼らで、わざわざ武道を学びに来るということは、同じ体格の者どうしがやり合っても力の限界を感じるからで、そこを技術で制圧する方法はないかと、できるならお互いが傷つかない方法で収める方法はないかと思っているわけだ。

 アメリカというと、世界最大の経済力と軍事力、科学技術力を持ち、白人優先の銃社会で訴訟社会で、とんでもなく物価が高くて、仮にアメリカを旅行中に入院でもしたら、1当たりの入院費用が何百万円と請求されるとんでもない国だというイメージがある。

 これまでヨーロッパになら旅行に行ったり、武道の交流で行ったりしたこともあるが、アメリカに行こうと思ったことは一度もない。すごい国だということはテレビやニュースで十分にわかっているから、わざわざそれを確認しに行ったって仕方ないだろうという気分だ。

 わざわざ行かなくても、向こうの方からこうして来てくれるから、武道という日本文化を通じての交流くらいはやっている。上半身、腕の強さは大したものだが、足腰の強さはそうは感じない。しかし、大雑把なようでいて緻密だ。相手をよく見て分析し、記録までしている。そのうち武道の動きもテクノロジーで凌駕してくるんじゃないかと思ったりする。

土手に立つ小屋

 川沿いの土手の上に一軒、小さな民家とも作業小屋とも見分けがつかないような建物が立っているのを散歩中に見つけた。土手下には、低い民家の建物が立ち並んでいるような一帯だった。その家からは、川の流れる風景も、土手下のこちら側の街並みもよく見えることだろう。

 誰か住んでいるにしても家族で住んでいることはなさそうだ。ひとり暮らしの中年男が、気楽に、それこそ日雇い労働のような仕事でもして、気が向いたときに働き、そうでない時はごろごろと寝そべって生活しているのだろうか。

 勝手な想像だが、そういう生活に憧れる自分がいる。仕事の連絡用と動画を眺めるためにスマホ一つを持って、世間のニュースもその辺の定食屋でテレビのニュースを眺めたり、新聞を読んだりするくらいで十分だ。

 洗濯は、食事をしている間に、近くのコインランドリーに放り込んでおく。風呂は簡単なシャワーがついていればいい。あとは週に1回ぐらいは銭湯通いをしてもいい。少し歩けば、交通機関は発達しているから、車を持つ必要もない。

 大都会の下町だからこそ、そうした生活も人目を気にせずにできそうだ。変わり者の男が一人で住んでいるくらいの噂は立つだろうが、仕事さえしていれば、そう世間に引け目を感じる必要もない。人と比べて贅沢な生活をしたいというような気はさらさらないのだから。

 想像はしてみるものの、今の自分にはとても叶えられそうもない。すべてを捨ててそういう生活をする覚悟があれば別だが、想像よりもやはり現実の生活の方が優先する。子供の学費に、実家の老親の介護の問題も迫ってきた。

密教

 実家が浄土真宗であり、通った幼稚園も浄土真宗の境内の中にあったから、収宗教といえば浄土真宗が自然と身についている。浄土真宗の他力本願的な思想は、天地に従順であり、一切を南無阿弥陀仏の名号の中に委ねる。

 これに対して密教というのは、何やら念の力をもって天地や自らの運命を動かすような、非常に躍動感あふれるものを感じる。これはやはり、密教の開祖の空海という人が、エネルギッシュで卓越した個性の人だったことにもよるのだろう。

 浄土宗の法然さんや、その弟子である浄土真宗親鸞さんの教えは、われわれのような凡人にとっては親しみやすく優しいものだ。

 ご本尊の阿弥陀仏は、衆生の一人も余すことなく、それがどんな悪人でさえ、追いかけて行ってでも救おうとされる仏様だ。必要なことは、ただ南無阿弥陀仏と唱え、この仏様に意識を向けることだけである。

 結局は、この阿弥陀仏にすべてを委ねることになるとは思いながらも、一方で、真言密教の即身成仏的な、この身のままで宇宙と一体化するような体験をしてみたいとのあこがれもある。

 ただ、そうなると修験者のような千日回峰的な修行や滝行といった厳しい肉体行を何年も経なければならないだろうから、俗世間の経済社会の網の目に雁字搦めとなっている今の状態では難しい現実がある。

 50歳を目前にして、派遣の日雇いから造園業へと身を投じたのも、現金収入を得ながら肉体行的なものを体験しようという意図がなかったとも言えない。即身成仏には程遠いが、お陰で心身ともにかなり鍛えられた。

 

苦しみを乗り越える

 事務仕事のデスクワークからこの仕事に飛び込んできた新人の一人が、先週半ばに、仕事中にぎっくり腰に見舞われて動けなくなった。植木屋の仕事を始めて3カ月が過ぎたころだから、腰に疲労がたまっていたのだろう。

 先月くらいから、自分にはこの仕事を続けるのは辛いかもしれないとたまに弱音を漏らしていたので、今回のぎっくり腰をきっかけに辞めるほうへと気持ちが傾くかもしれない。

 彼ももう50代の半ばだから、ほかに仕事を探すといっても、体を使うような仕事以外はなかなか厳しいだろう。アルバイトを探してもシニアの枠になる。日雇いでなければ、警備、介護、清掃といったところか。倉庫内の軽作業といった募集もよくあるが、あれは年配者にはかなりきつい。

 逆に言えば、体さえしっかりしていれば、肉体労働で月に20万円稼ぐくらいならば何とかなる。恐らくは、元の会社の給料の半分かそれ以下だろうが、そこは諦めて割り切るほかはない。

 彼に関しては、幸か不幸か独身だから、月20万あったら何とかやっていけるんじゃないだろうか。だが、問題は体だ。しっかり足腰を鍛えて、腰回りの筋肉を強くすること。それはこの仕事をしていれば自然と身につく。

 親方をはじめ、決して無理な作業をさせているわけでもないから、半年、1年かけて体質の強化が図れるかどうかだ。

大化の改新

 大化の改新というと、中大兄皇子中臣鎌足が、悪人の蘇我入鹿を殺して、ついでに入鹿の父親の蘇我蝦夷も自殺に追い込んで、なにやら新しい時代を開いたような印象だが、要するにただのクーデターだな。

 蘇我氏が滅んだことで、日本は、豪族の時代から天皇を中心とした律令国家へと変わっていったと言っても、よく見れば、律令国家の路線じたいが、もともと蘇我氏が敷いていたものだから、彼らにしてみれば何のために殺されたのかよく分からないということになる。

 実際、日本で律令体制が確立したのは、大化の改新から何十年も後のことだからな。中大兄皇子というのが、理想の先走った青年将校みたいで、どうも胡散臭くて仕方がない。

 この人物は、のちに天智天皇となってからも、弟の大海人皇子を暗殺しようとしたり、最悪なことには朝鮮半島でむだな戦争を引き起こして、白村江で歴史に残るような大敗北を喫しているわけだから、本来なら十分に戦犯者だよ。

 これが蘇我氏だったら、律令制度の模範となった高句麗ともかかわりが深かったわけだし、国際感覚もしっかりしていて、わざわざ外国で負けるような戦争を仕掛けることもなかったんじゃないかと思うね。

 それから、中大兄皇子と組んだ中臣鎌足という得体のしれない男。結局はこの男の子孫に日本は乗っ取られたようなものだ。中臣氏改め藤原氏が、その後何百年と天皇を傀儡にして、蘇我氏以上に日本の政治を独裁することになったのは歴史が示している通りだからな。(八十八爺)

英語教育の無駄

 今は小学校でも授業で英会話をやるんだよな。それは大変結構なことに思えるが、中身をよく見てみれば、英語を使ってゲームをしたり、歌を歌ったりと、幼稚園レベルのことをわざわざ英語を使ってやっているわけだ。小学校の高学年の子どもを相手にだよ。

 こんなお遊戯みたいなことを、貴重な授業時間を使ってやるっていうのは、時間の無駄じゃないのかね。そもそも何が英語教育の目的なんだ。安っぽい英会話をぺらぺらとしゃべれるようになることが目的だとしたら、もう日本の教育は終わっているよ。

 そんなことは自分で勝手に英会話教室にでも通ってやらせろよ。日本の外国語教育というものは、読解力を鍛えるためにやるんだよ。例えばだな。外国の文章を必死に日本語に訳そうとする過程で頭が鍛えられ、日本語で文章を構成する力が磨かれるんだ。そうした過程で知識も身につき、教養も深まる。

 そういうことを義務教育でやらなきゃ、日本人の知的レベルはどんどん落ちていくばかりだろうが。安っぽい英会話をだな、いくらべらべらしゃべったところで、中身がなかったらかえって外国人に馬鹿にされるんだよ。

 ちょっと前のゆとり教育じゃ、円周率を3にしようとかするし、文部科学省ってのは、やっていることがとんちんかんのチンドン屋みたいなもんだな。はっきり言えば愚民化政策だ。

 うがった見方かも知れんが、自分たちは賢い。国民は従順な馬鹿でいいと、そんなふうに政策を誘導しているようにも感じてしまうな。少なくとも、中途半端な学力で今の世の中に放り出されてしまう若者は可哀そうだぞ。

 小学校で英会話の授業を増やしたところで、本当の意味でのコミュニケーション能力の育成にはならないことぐらい、本当はあの連中だってわかっているのさ。何しろ頭のいい官僚様だからな。(八十八爺)