密教

 実家が浄土真宗であり、通った幼稚園も浄土真宗の境内の中にあったから、収宗教といえば浄土真宗が自然と身についている。浄土真宗の他力本願的な思想は、天地に従順であり、一切を南無阿弥陀仏の名号の中に委ねる。

 これに対して密教というのは、何やら念の力をもって天地や自らの運命を動かすような、非常に躍動感あふれるものを感じる。これはやはり、密教の開祖の空海という人が、エネルギッシュで卓越した個性の人だったことにもよるのだろう。

 浄土宗の法然さんや、その弟子である浄土真宗親鸞さんの教えは、われわれのような凡人にとっては親しみやすく優しいものだ。

 ご本尊の阿弥陀仏は、衆生の一人も余すことなく、それがどんな悪人でさえ、追いかけて行ってでも救おうとされる仏様だ。必要なことは、ただ南無阿弥陀仏と唱え、この仏様に意識を向けることだけである。

 結局は、この阿弥陀仏にすべてを委ねることになるとは思いながらも、一方で、真言密教の即身成仏的な、この身のままで宇宙と一体化するような体験をしてみたいとのあこがれもある。

 ただ、そうなると修験者のような千日回峰的な修行や滝行といった厳しい肉体行を何年も経なければならないだろうから、俗世間の経済社会の網の目に雁字搦めとなっている今の状態では難しい現実がある。

 50歳を目前にして、派遣の日雇いから造園業へと身を投じたのも、現金収入を得ながら肉体行的なものを体験しようという意図がなかったとも言えない。即身成仏には程遠いが、お陰で心身ともにかなり鍛えられた。