ふと思い出したこと

 出かける間際に首のまわりをふこうと思って、ウェットティッシュを探したがない。女房に濡れティッシュはどこだと言うと1枚持ってきてくれた。それを使ってふいていると何だが匂いが強くて、持った感じも重い気がする。

 何だこれは、テーブルとか床をふくやつじゃないのかと言うと、だって体をふくとは思わなかったんだもの、とすまして答える。確かに何に使うとも言っていないが、いきなりテーブルか床の掃除でもすると思ったのだろうか。

 そんなことはどうでもいい話だが、ふと北関東にある小さな市の保健センターに仕事で通っていた時のことを思い出した。健康増進計画というものを各自治体でつくることになっているのだが、その業務を請け負って保健センターでの会議に参加し、それが終わってセンター長に呼ばれて、少し雑談をして帰るのがいつものパターンだった。

保健センター長といっても、その分野の専門というわけではない。実務はみんな気の利いた保健師さんたちがやっているから、そこの組織の顔として存在しているようなものだ。もう定年もまじかで、退職までの数年間をその職場にあてがわれただけのような感じの人だった。

 まったく悪い人ではないが、退屈などうでもいい話を長々と聞かされる。帰ってからの仕事が気になりながらも、無下にはできないから、我慢して付き合うほかはない。

その間、話の内容よりも、センター長の左右の鼻の穴から白髪交じりの鼻毛が長々と飛び出しているのが気になって仕方がなかった。薄くなった髪の毛にはところどころにふけが浮いていて、髭の剃り方もいい加減だ。

 スーツの肩にはふけが白く積もり、目を下に向ければ、ワイシャツのボタンが太ったお腹の部分で引きちぎれそうになっていて、中の下着が丸見えになっている。さらに下に目を向ければ、まくれ上がったズボンの下から毛脛がはみ出して、靴下は左右の長さが違っていた。

 地方自治体の職員として、安定した生活を送り、女房も子どももいて、最後には保健センター長にまでなり、老後も保証されているのだから、世間一般的に見れば十分に成功者と言える。

 しかし、女性職員が大多数を占める職場で、この身だしなみの気楽すぎる姿はいったいどうしたものだろうかと不思議だった。長年連れそった女房は、旦那のこの姿を見て何とも思わないのだろうか。あるいは給料さえ安定して運んでくれれば、あとはどうだっていいと諦めているのだろうかと。

 あれから二十年近い月日が流れて、自分もまた当時の保健センター長に近い年齢となりつつある。スーツはとっくに捨てて、身だしなみに気を遣うような相手もいない職場だが、あのセンター長のある意味人間離れした境地にはとても到達できそうにない。