足りなかったのは、自分で考えること

 まったく考えなかったということはなく、人生の岐路のそれぞれの地点でいろいろと悩んで、考えてきた結果が今に至っている。考えたところで選択肢は限られていたかもしれないが。

 あるいは視野が狭かったり、今一歩を踏む出す勇気がなかったりしたために、選択肢が限られていたのかもしれない。

 それ以前に、自分の人生を自分で考えることを、十分に行ってきただろうか。考えるのが面倒だったり、あきらめの気分から流されるだけだったような場面が多かったのではないか。

 本来自分が目指すべきものは何だったのか。こうしたことを考えるようになったこと自体が、ようやく50歳を超えてからのことだ。いや、予兆は40代のころからすでにあった。ずっと誤魔化してきていたのだ。

 考える仕事を専門にしていながら、肉体労働に身を投げ込んでから、ようやく真剣に考えるようになったというのも皮肉なことだ。机上の空論で考えたとことで、たいして意味はないということかもしれない。

 今さらながらだが、もう一度自分で考えるということを再構築していかねばならないだろう。そのこと自体がよくわからなくなっている。ブログを書くというのは、考えるためのいい訓練になる。Diaryとなっているから、とりあえずテーマは何でもいいだろう。

 もがきながらでも進んでいるうちに、何となく道はできてくるはずだ。それくらいのことは、これまでの人生経験からも分かってはいる。